九段坂三番町

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■ フランクを調べる

2006/09/20 水 22:42 | -

 Web2.0の代表格とされる「Wikipedia」が携帯電話から利用できる。で、通勤中にいろんな項目を調べている。だいたい興味の対象となるのは、歴史にまつわる語彙だ。

 昨日は、西ローマ帝国成立〜終焉といったあたりから読み始めて、ゴート族とか、アッティラとか読んで、最終的にはフランク王国について、フムフムと読み進めていた。

 フランク王国は、現在のドイツ・フランス・イタリア北部を治めていた国。時代は5世紀〜9世紀くらい。で、最終的には分裂しちゃう。分裂したために、今はフランスとドイツがきっぱり分かれている、と言えなくもない。フランスとドイツが分かれてるのは、ヴァルスが! みたいな話のほうがいいのか。まぁいいや。

 で、なんでフランクが分裂したか、ってことに疑問があったわけだ。このあたり、Wikipediaの記述は「フランク族は、分割相続を伝統としていた」としている。んー、一瞬納得しかけたが、それならば、どうして分裂を招いた王様(ルードヴィヒ)の親父さん(カール大帝、シャルルマーニュ)とか、ピピンとかの時代に分裂しなかったのだ? という疑問が……。

 もしかして、分裂以前は相続人が1人だけだった、つまり子供が1人しかいなかったのか、あるいはライバルの相続人を殺しちゃったりしていたのか……などなどと疑問がわく。さらにWikipediaを読み進めると、どうやらピピンも、カール大帝も分割相続によって先代の遺産を受け継いだものの、他の相続人(兄弟)が引退したり、死んじゃったりして、単独相続になったということが記されていた。

 ふぅ、ここまで読んで疑問は氷解。ただし、ただしだ。ここでわかったのは、一部分に過ぎない。フランク王国は、建国した人の子孫が王位を継承した系統「メロヴィング朝」と、そのメロヴィング朝の元で一番偉い大臣だった家の人が王位を乗っ取った系統「カロリング朝」に分かれる。わしが今回調べたのは、後半のカロリング朝のみ。でも、メロもカロもフランク族。つーことは、前半のメロも分割相続していたのか……。

 Wikipediaには、メロヴィング朝の王様の話は、建国者のクローヴィスくらいしか載っていない。読み進めると、あーた、なんと最初の王様であるクローヴィスの死後、いきなり王国は4人の子供で4分割されていた、とある。で、4分割したから、王国としての力が衰え、後のカロ乗っ取りにつながったという。

 ここまできて、ほぼ疑問はなくなった。っていうか、フランク族は、ようそんな伝統で王国を作れたな。このあたりは、個々人の能力如何ということなんじゃろうか。おもろいのう、というわけで、今夜帰宅時には、続きとしてイギリスあたりを読み返していきたい。

 あ、そうそう、「気さく」という意味合いで“フランク”という単語を用いる場合があるが、この語源は、今回触れたフランク族だという……なんでやろ。新たな疑問。
 
author : hiziri | comments (0) | trackbacks (0)