九段坂三番町

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■ 自分の中の1.17メモ

2006/01/17 火 23:59 | -

1年前→http://hiziri.s53.xrea.com/lg/eid274.html

2年前→http://hiziri.s53.xrea.com/lg/eid24.html

3年前、すなわち2003年に記したものは別の場所にあるので、ココに転載。ある人がルミナリエを話題にしていて、それに対する駄反応、ということで。以下は無駄に長いので、興味がない人はすっとばすべし。
 「ルミナリエ」はやっぱり関西中心にその名が知れ渡っていて、「ミレナリオ」もたぶん東京中心に有名だと思われるのですが、
(上京以前のわしはミレナリオしらんかった)

 ルミナリエの公式サイトにも記されてますが、日本で開催されるようになった由縁は阪神大震災があったからとされてます。

 その光は、神戸市街地南部を埋め尽くし、筆舌に尽くしがたいものがありまして。

 ミレナリオを見たことがないわしですが、ルミナリエの由縁を聞いていた上京後のわしは「神戸のほうが!」と幾度となく友人に言うてた記憶が。

 確かに鎮魂という意味が込められたルミナリエの光は実際の光量以上にまばゆく見えるものでした。

ここからはルミナリエと直接関係のないお話です。
震災のお話です。

 わしの実家は甲子園から東南の方角へ約4kmの集合住宅団地。最高で25階建てのマンションが2つあり、それぞれが10階以上となる建物が30棟も集まっている団地です。その朝は、わしの家が10階にあることもあって、揺れに揺れて、家中がひっくりかえりました。

 それでも断層のずれからは8kmほどはなれていたため、ガス管や水道管は破壊されたものの、建物自体はその堅牢性を発揮してヒビこそ入れども、生き延びるには充分な構造を保っていました。

 夜が明けるやいなや、その頃既にバイクを所有していた幼馴染とのところに行って、近くのローソンまで買いだしに。既に行列ができていましたが、なんとかチョコレートや飲料を購入。そしてバイクで団地へ戻る途中に、たぶん余震が幾度かあったためか、地割れが進んだアスファルトの路面を発見。興奮していたこともあってやたら笑っていたのでした。

 そして数時間後、神戸方面には煙がのぼり、ちらちらと火の手が上がっている様子が見て取れて。とりあえず実家の周りで死者が出ていないと思われたわしらは、震災の現場に一番近い、やじうまであったと思います。

 大学受験を控えていたわしは、その後親と兄弟に水の調達をまかせ(自衛隊には世話なりまくり)必死こいて大学に入学を果たし。あの日のことは今でも鮮明に思い出せますし、まだまだ細かく描写できるのですが、それはさておき。

 それから時は経ち、ある日地元で一軒のカフェを見つけました。なにやらこじゃれた店で、その頃毎日酒を飲んでいたわしは、その店に入り浸るようになり、スタッフとも仲良くなると、そこがコミュニティFMによる運営であることを知ります。局の代表を務めていた人物は、愉快極まる人で、バイクが大好きで、常に「男の子」であろうとする方でした。

 その人と一緒に酒を酌み交わしていたとき、ポツリポツリと震災のことを教えてもらいました。なぜコミュニティFMを運営することまでに至ったか、その運営方針はどう定まったか、ということを聞いていたのですが
やはり震災が大きな影響を与えていたようで、その内容は決して愚痴ではないもの。

「どうして生き残ったんやろなぁ」

その言葉が今でも耳にあります。最も被害が激しかった地域にいたその人は、子供の頃から親しくしていたおっちゃんやおばちゃんが無作為に死んでいく様を見て、その問いかけをせずにいられなかったようでした。明確な答えは見つかっていたのかどうか、分かりませんが

「だから頑張るんや」

と至極まっとうな言葉が、そこにはありました。

 わしにとって、あの光の洪水はルミナリエをどうしても思い出しますし、ルミナリエは、神戸は、やっぱり震災につながっていきます。

 8年も経って、まだ言いつづけるのは、なんや愚痴みたいで善人ぶってる気もしますが、親となった今はなんとか子どもに伝えていこうとおもてます。身の回りに亡くなった人がいる方は、はよう忘れてもらって、不幸がないわしは語り部になれればええかなあと。
author : hiziri | comments (1) | trackbacks (0)

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